2015年のARTORO連続7回講座「土がぼくらにくれたもの」が始まりました。
何はなくても土さえあれば生きていけると始めたARTORO。暮らしってなんて、クリエイティブなんだろう。祖先が「こっちのほうがいいだろう?」と選んできた結果が今の暮らし。なぜこうなったのか?そのプロセスをたどってみたら、私たちは今、“未来へ向かって選んでいるのだ”と実感しています。
本業は、人間。生きていくのに、自分が本当に必要なものはなんだろう。
人間の先輩は自然を熟知していて、合理的に暮らしてた。
知識で知っていることと、自分の手で、身体で知ることは大きく違い、そういう実感をもって今、生活したいと思っています。
だから、この活動を続けていこうと考えてる。
人がなにかを作り出していく過程、生み出せる場や関係性の力そのものも、“アート”と捉えています。
「ART」はその語源からすれば、人の腕(スキル)。焼き物はすべて、人工物。田んぼも人工だよ。
成果物として生み出されたものより、そこで得たことや想いをそれぞれが自分の持ち場に帰って生かすことができて、初めて活きると思う。ARTOROで、弥生の暮らしを体験したとしても、一年365日、こうだった昔とはちがう。
じゃあ、ARTOROって何?
去年の6回講座が終わったときも思ったけれど、『きっかけ』。この体験から少しばかり今の生活を見直したり、目の前にあるものがなぜここにあるのかな?とか、ものを大切にしたり、とか。そんなことが日々の暮らしにポツリポツリと起きたら、うれしい。
今年のテーマは『火耕水耨(かこうすいどう)』。割れた土器を桜の皮で継いで大事にしていた登呂ムラの人が、そんなにしょちゅう土器を焼いていたとは思えないという仮説から、昨年までに藁や籾を燃料に、田んぼの泥土で覆って土器の野焼きをした。土器を焼くための素材をすべて田んぼで調達できたんです。それならば、今年は、焼畑ならぬ焼き田んぼをして、ついでに土器も焼いてみようと、あたらしい実験をします。誰に教わるでもなく、自分たちで考えて実験をしていくうちに、それは遠い昔に中国で行われていた、農法に似ているかもしれないと、考古のプロが「火耕水耨」教えてくれた。
田んぼを焼いて、種籾の直播きをする。焼き灰は土壌の栄養にもなるはずだ!今年も一緒に取り組んでくれる仲間を募集します。
昨年の様子です。
